岡本太郎と八重山の労働歌であるユンタの出会い
岡本太郎と八重山の労働歌であるユンタの出会い
まず、岡本太郎(1911-1996)とはどのような人かと言うと、日本の芸術家で絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文や沖縄のプリミティブな美術を再評価するなど、文筆活動も精力的に行った人。1970年の大阪万博で太陽の塔の制作者であった。
テレビ番組にもよく出演し、「芸術は爆発だ」とよく叫び人気を博した。

このような人が1959年に沖縄タイムスの招きで石垣島を訪れたのである。
ここで、旅館に逗留し、八重山民謡の師匠、大浜津呂氏の演奏を聴くことになった。
大浜師匠は、三線で伴奏をつけながら、鷲ぬ鳥節を歌ったが、歌い終わるか終わらないうちに、歌の節目で、岡本太郎氏が突然ストップをかけ、「昔は打楽器しかなかったはずだ。三線抜きでやってもらえないか」と口早に言い、「三線なしの歌、例えば、ユングトゥ、とか、ユンタというような」と所望した。
津呂師匠は怪訝な顔をして渋ったが、やがて三線を起き、膝を叩いて拍子を取りながら歌いだしたが、一曲ですぐに辞め、「この歌は男女の掛け合いだから、明日、改めてお聴かせしたい」と断りその日は終わった。

写真左端が大浜津呂師匠
明晩、津呂師匠は、男女二人を伴ってやってきて、互いに向かい合って、ユンタやジラバを唄ったと言う。もちろん三線なしで。
岡本太郎氏もこれには感嘆し、手記の中で「男が唄えば女がはやす。女声が唄うときには、男が受けて、はやし声を入れる。激しい唱和である。日本の民謡にこのような立体感は見られない。ぎりぎりの哀愁を塗り込めた、嘆き、訴え、それは叫びの極限まで、いのちを振り絞ったと言う感じた」と述べている。
ユンタやジラバは八重山民謡の根幹だと言われる。節歌も元々はユンタ、ジラバから生まれたと言う。
そう言われても、やっぱり、節歌の方が私は好きだ、というのが本音である。
ユンタ、ジラバ、全部が全部ではないが、ちょっと地味な印象を受ける。この練習も、はっきり言ってつらい。仲間もそう思っているようで、「ユンタはもう辞めてほしい」という人もいる。私もかなり同意できる。
三線なしで、何人かの人がユンタを唄っているCDもあるが、自分の考えている三線のイメージとあまりにも違うので、違和感の山である。
しかし、私も最近は少し変わってきた。実は、ユンタの曲、ゆんたしょうら や 猫(まや)ユンタ 等などは、三線を入れず、手拍子で唄った方がしっくり来る様に思って来た。
また、岡本太郎氏が述べている様に、男と女の掛け合い、うてぃなん・すてぃなん唄法と言われているものであるが、これは素晴らしいなと思う。「うてぃなん・すてぃなん」とは、波が寄せては返すような意味であると言うが、「多良間ユンタ」や「あんぱるぬみだがーま」に見られるが、これは面白いな、と思う。たしかにこのような唄い方は、内地の民謡にはない。
というわけで、では、お前さんは何を言いたいのかね? と言われると、岡本太郎氏とユンタの出会いの面白いエピソードがあったので、メモがてらにここに記しただけである。
ユンタの素晴らしさを見抜いた岡本太郎氏の眼力に敬服するとともに、それに見事に応えた、津呂師匠も見事である、さすがである、と思った。
内地にいると、なかなかユンタ、ジラバの心が分からない。といって八重山に行けば分かるのかと言うと、なかなか難しそうだ。というのは、働きながらユンタを唄っている光景、というのはもう見られないそうだ。
昭和30年代のころは、実際に畑仕事をしながら、あるいは、サトウキビを潰しながら、ユンタをみんなで唄っていたと言う。このようなものを実際に見たり聴いたりしたいものである。
あと、岡本太郎氏であるが、彼は漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に一人息子として生まれたのであるが、母親のかの子はちょっと変わった人で、夫公認で、何人か愛人がいたそうだ。
厚化粧をぬったくった中年女性になっても、若い愛人達にかしずかれていたというから、逆に私は大したものだな、と思う。男の魅力、女の魅力とはどの辺にあるのかな?、と思う。


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まず、岡本太郎(1911-1996)とはどのような人かと言うと、日本の芸術家で絵画・立体作品を制作するかたわら、縄文や沖縄のプリミティブな美術を再評価するなど、文筆活動も精力的に行った人。1970年の大阪万博で太陽の塔の制作者であった。
テレビ番組にもよく出演し、「芸術は爆発だ」とよく叫び人気を博した。

このような人が1959年に沖縄タイムスの招きで石垣島を訪れたのである。
ここで、旅館に逗留し、八重山民謡の師匠、大浜津呂氏の演奏を聴くことになった。
大浜師匠は、三線で伴奏をつけながら、鷲ぬ鳥節を歌ったが、歌い終わるか終わらないうちに、歌の節目で、岡本太郎氏が突然ストップをかけ、「昔は打楽器しかなかったはずだ。三線抜きでやってもらえないか」と口早に言い、「三線なしの歌、例えば、ユングトゥ、とか、ユンタというような」と所望した。
津呂師匠は怪訝な顔をして渋ったが、やがて三線を起き、膝を叩いて拍子を取りながら歌いだしたが、一曲ですぐに辞め、「この歌は男女の掛け合いだから、明日、改めてお聴かせしたい」と断りその日は終わった。

写真左端が大浜津呂師匠
明晩、津呂師匠は、男女二人を伴ってやってきて、互いに向かい合って、ユンタやジラバを唄ったと言う。もちろん三線なしで。
岡本太郎氏もこれには感嘆し、手記の中で「男が唄えば女がはやす。女声が唄うときには、男が受けて、はやし声を入れる。激しい唱和である。日本の民謡にこのような立体感は見られない。ぎりぎりの哀愁を塗り込めた、嘆き、訴え、それは叫びの極限まで、いのちを振り絞ったと言う感じた」と述べている。
ユンタやジラバは八重山民謡の根幹だと言われる。節歌も元々はユンタ、ジラバから生まれたと言う。
そう言われても、やっぱり、節歌の方が私は好きだ、というのが本音である。
ユンタ、ジラバ、全部が全部ではないが、ちょっと地味な印象を受ける。この練習も、はっきり言ってつらい。仲間もそう思っているようで、「ユンタはもう辞めてほしい」という人もいる。私もかなり同意できる。
三線なしで、何人かの人がユンタを唄っているCDもあるが、自分の考えている三線のイメージとあまりにも違うので、違和感の山である。
しかし、私も最近は少し変わってきた。実は、ユンタの曲、ゆんたしょうら や 猫(まや)ユンタ 等などは、三線を入れず、手拍子で唄った方がしっくり来る様に思って来た。
また、岡本太郎氏が述べている様に、男と女の掛け合い、うてぃなん・すてぃなん唄法と言われているものであるが、これは素晴らしいなと思う。「うてぃなん・すてぃなん」とは、波が寄せては返すような意味であると言うが、「多良間ユンタ」や「あんぱるぬみだがーま」に見られるが、これは面白いな、と思う。たしかにこのような唄い方は、内地の民謡にはない。
というわけで、では、お前さんは何を言いたいのかね? と言われると、岡本太郎氏とユンタの出会いの面白いエピソードがあったので、メモがてらにここに記しただけである。
ユンタの素晴らしさを見抜いた岡本太郎氏の眼力に敬服するとともに、それに見事に応えた、津呂師匠も見事である、さすがである、と思った。
内地にいると、なかなかユンタ、ジラバの心が分からない。といって八重山に行けば分かるのかと言うと、なかなか難しそうだ。というのは、働きながらユンタを唄っている光景、というのはもう見られないそうだ。
昭和30年代のころは、実際に畑仕事をしながら、あるいは、サトウキビを潰しながら、ユンタをみんなで唄っていたと言う。このようなものを実際に見たり聴いたりしたいものである。
あと、岡本太郎氏であるが、彼は漫画家の岡本一平、歌人で作家・かの子との間に一人息子として生まれたのであるが、母親のかの子はちょっと変わった人で、夫公認で、何人か愛人がいたそうだ。
厚化粧をぬったくった中年女性になっても、若い愛人達にかしずかれていたというから、逆に私は大したものだな、と思う。男の魅力、女の魅力とはどの辺にあるのかな?、と思う。


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