コンクールを客観的に判定、評価する
今日は、コンクールというものを客観的に判定するいくつかの基準について述べたいと思う。
いくつか項目を挙げるが、それが絶対と言うわけではない。三線を含めて世間一般では、このような基準で、コンクールは判断されているのではないか。
例えば、地元で行われる、習っている教室主催の、自分の所の生徒を対象にしたささやかなピアノコンクールと、日本では有数のピアノコンクールである、読売新聞社主催のコンクール、はてまた、本場ヨーロッパのパリやロンドン、モスクワ、ベルリンあたりで行われる、大規模な国際ピアノコンクールもある。いや、東京だって今や世界の一つの極で、多くの外国人が東京のピアノやバイオリンの国際コンクールには受けに来ている。
さて、このようにピアノを例に挙げても、様々なコンクールがある。すごい国際コンクールもあれば、ささやかなコンクールもある。それぞれに意味がある。しかし、すごいコンクールとささやかなコンクール、どのような指標で見分けているのであろうか。それを考えてみた。
指標をいくつか列挙する
1)コンクールの参加人数
2)そのコンクールの歴史 古いコンクール程、評価はされる
3)課題曲の難易度
4)審査員の顔ぶれ、人数
5)そのコンクールで勝った人はどのような栄誉を受けるのか
6)歴代のそのコンクールで勝った人は、どのような軌跡を描いているのか
7)そのコンクールが、ある協会、団体に入っていないと受けられないと言う、閉鎖的なコンクールなのか、だれでも受けられる、オープンなものなのか。
8)公正さ
ざっと挙げてみた。これらの項目をいろいろ判断して、評価して行くものであろう。それぞれが絶対というものではない。
例えば、(2)そのコンクールの歴史に関して、古い伝統のあるコンクールが新しいものより必ず良い、というものでもない。しかし、歴史のある、ということは評価されるべきだし、それだけ、そのコンクールの受験者がどれだけ活躍しているかも、調べられる。新しいコンクールは、どれだけ良いとどれだけ自分達で言ったって、(6)歴代のそのコンクールで勝った人の将来 が追えないのでどうしようもない。自画自賛はいくらでも出来るが、客観的には何も言えないだろう。比較したり、評価のしようがないと言う状況に陥る。ここで言うのはあくまでも、客観的評価である。歴史が浅くてもがんばっている団体もある。逆に、がんばらなければ、受験生が減少し見捨てられ終わってしまう。
1)コンクールの参加人数 に関して:数が多ければ良い、ってものではないが、やっぱり一つの評価基準の要素にはなる。
3)課題曲が難しければ単純にすごい、というものでもあるまい。でも、やっぱり、たいへんな課題曲をこなして取った賞は、そうでもない課題曲を設定してるコンクール受験生からは、仰ぎ見られることは確か。自分には出来ない事をやった人は尊敬される。
自分が5年程前にいた、某協会のコンクールの課題曲は、でんさ節、やつんだら節のような、いわゆる、八重山の基本曲から1曲自分で選び唄うと言うもの。優秀賞、最高賞でも、2−3曲から1曲抽選で当てられそれを唄うというものだった。それはそれで、困難なものであるし、最高賞を取った人は非常に上手いですね。しかし、その時に私も仲間達も、そして先生でさえも、八重山古典民謡コンクールの課題曲の重厚さと厳しさを仰ぎ見ていた。
そのこともあり、今回、自分が八重山古典民謡コンクールの新人賞に受かった事は、自分なりに一つの山を越えたという自負心もあり、感慨深いのだ。
4)審査員の顔ぶれ に関して:やはり、自分は八重山古典民謡を唄いそれを評価されるのだから、10人くらいいる審査員の6−7割は八重山古典民謡の専門家が居てほしいものだ。また、第一人者と言われる人も何人もいるとやり甲斐もあるというものだ。
逆に、10人のうち、八重山の専門家が2−3人だったら・・・・ かなり悲しい。そんなバカなコンクールがあるのか、と思ってはいけない。そのようなコンクールだって実際にはある。八重山古典民謡コンクールはその点は太鼓判を押せる。だから私はこのコンクールを受けたいと思い、それを許可してくれる、というか、このコンクール出身者が先生をしている教室に入門したのだ。
私は、八重山古典民謡は、本島民謡とはまったく異なるもの、と認識している。だから、いやしくもコンクールで審査をされるとしたら、10人の審査員がいるとしたら、7−8人は八重山古典民謡の専門の人が審査員であって欲しいと思うし、そうでなければならないと思う。
もしそうでない、本島など他の民謡の人が多数の審査員がするコンクールなら受ける価値はないと思っている。私ならそのようなコンクールは受けないだろう。時間と金の無駄である。でもそのようなものも実際に多いのだ。本当に注意が必要だ。
自分では一生懸命でもまったくの空回り、ということになる。
8)公正さ:変な話しも聞くのですよ。以前だって、今回だって、私なりに苦労して仕事の休みを取って、石垣島まで行っているのですよ。5日間休みを取っている。コンクールが厳しいと言うより、私には休みを取るために仕事の調整をする方がずっと神経を使うものです。皆もそうでしょう。
と思ったら、新人賞なり、優秀賞なりを簡単にテープ審査で発行したりしている協会もあるのだ。何だろうね、と思った.資格商法の一種ではないかと思っている。そのような類いのものも実際にはある。
まあ、公正さは大事です。公正さが無ければ、そんなコンクールすぐに廃れてしまう。受験者にとってみれば受ける価値がないのだから。
7)オープンかクローズドか:私は個人的には、この事に一番重点を置いている。コンクールを行う協会の研究所に所属していないと受けられない、というクローズドのコンクールがすごく多い。いや、八重山古典民謡コンクール以外は、私の知る限りほとんどクローズドではないだろうか。
いや、誤解無い様に前もって言っておきたいが、それぞれにポリシーがあるのだから、それはそれで良いのだが、受ける方としてみれば、怖くはないか、と言う事。
例えば、新人賞を取った、優秀賞を取った、と言ったって、習っている先生と仲違いをして、教室を辞めれば、もう受けられなくなる訳でしょう。沖縄県に住んでいれば、その会派の別の先生に習って再出発を期す事も出来るが、内地では難しい。私の住んでいる所でも無理。だけど、このようなことは、人間の世界なんだからいくらでもある。人間関係など、ちょっとしたことでどうにでも転ぶ。崩れる。どちらが悪い、と言う事にあまり意味も無い。あるのは、自分がその教室を辞め、今まで受けていたコンクールを受けられなくなるだけだ。
いやさ。自分と先生の関係は良好でも、沖縄に住んでいる研究所元の大先生との関係が悪くなってもダメ。自分の直属の先生と、その沖縄の大先生が喧嘩して、コンクール継続がダメになるケースだってある。まあ、もらい事故のようなものである。
それはそれで仕方が無いが、自分が苦労して仕事の調整を付けて、がんばってやって来たコンクールの継続性が失われるのはひとつの大悲劇であろう。
ゴタゴタがあり、三線から離れると、億劫にもなるし、日々の生活に埋没して三線も忘れしまう。5年、10年すぐに経つ。
このようなこともあるから、それをかなり警戒して、私はこのたび三線を再開するときには、クローズドのコンクールはまったく考えなかった。自分なら怖くてそんなコンクール受けられない。故に、このコンクール出身者の先生がやっている教室の門を叩いたが大正解だったと思っている。来年は優秀賞だ。これを取れば一段落だろうと思っている。
あくまでも私の個人的な考えを述べた。
それにしても、受けるからには自分の受けるコンクールを客観的に評価してみる事も必要だ。そして、絶対の信頼を置かなければ受けられない。時間を作るのは大変だ。車で30分運転したら着くようなところでやっているわけではない。何日も休みを取って行っている。言い換えれば、命がけだ。
いや、はっきり言ってコンクールを受けなくたっていいのさ。自分で一曲一曲楽しみながらこなして行けば良い。上手い人はこれでも上手い。最高賞だ、何だと騒いでも、レパートリーはコンクールの課題曲だけ、と言う人だって多い。そんな人よりずっと上手い人は世の中に山ほど居る。これも現実だ。しかし、敢えて仕事を休んで、しんどい思いをして休みを取って長旅をして、沖縄まで出向き、コンクールを受けるのなら、自分の受けるコンクールを客観的に見てみることも必要ということが、この記事の主旨である。
三線をやっている人の年齢層は、30代から50代の人が多い。この年齢は、十分に客観的にものを考えられる。いろいろな事を考えて、いろいろな選択をして行かなければならないし、現にそうしているだろう。この記事で動揺する人もいるまい。もし、動揺したらよく考えてみることだ。そして、コンクールをどうしても受けたいのならオープンな八重山古典民謡コンクールを受けたら良いではないか。
私はいろいろ書いているけど、私が決してひとりで美味しい事をしている訳ではないよ。だって、だれだって、この八重山古典民謡コンクールは受けられるんだから。クローズドのコンクールが多い、そのような点から見ると、この八重山古典民謡コンクール、三線の業界では、本当に一種の救いにもなっているコンクールではないかな、と思う。
この記事は、いろいろと耳の痛い事も言っていると思うが、客観的にいろいろ考えるネタになってくれれば、筆者としては幸甚である。これが人間の生きる世界の現実なのだから・・・
【図】斬られた
人間関係が悪くなって、「斬られて」しまう生徒だっている。この世にはいろいろなことが起こるのだ。
でも、それで、せっかく頑張ってやってきて、上のコンクールが受けられなくなるのは、生徒にとって、非常に辛い事だ。
三線を始めて、2−3年くらいして、熱心にやっていてコンクールにも関心を持っているお方なら、ここでお話したような「斬った、斬られた」の類いの話はよく耳にしているでしょう。
いくつか項目を挙げるが、それが絶対と言うわけではない。三線を含めて世間一般では、このような基準で、コンクールは判断されているのではないか。
例えば、地元で行われる、習っている教室主催の、自分の所の生徒を対象にしたささやかなピアノコンクールと、日本では有数のピアノコンクールである、読売新聞社主催のコンクール、はてまた、本場ヨーロッパのパリやロンドン、モスクワ、ベルリンあたりで行われる、大規模な国際ピアノコンクールもある。いや、東京だって今や世界の一つの極で、多くの外国人が東京のピアノやバイオリンの国際コンクールには受けに来ている。
さて、このようにピアノを例に挙げても、様々なコンクールがある。すごい国際コンクールもあれば、ささやかなコンクールもある。それぞれに意味がある。しかし、すごいコンクールとささやかなコンクール、どのような指標で見分けているのであろうか。それを考えてみた。
指標をいくつか列挙する
1)コンクールの参加人数
2)そのコンクールの歴史 古いコンクール程、評価はされる
3)課題曲の難易度
4)審査員の顔ぶれ、人数
5)そのコンクールで勝った人はどのような栄誉を受けるのか
6)歴代のそのコンクールで勝った人は、どのような軌跡を描いているのか
7)そのコンクールが、ある協会、団体に入っていないと受けられないと言う、閉鎖的なコンクールなのか、だれでも受けられる、オープンなものなのか。
8)公正さ
ざっと挙げてみた。これらの項目をいろいろ判断して、評価して行くものであろう。それぞれが絶対というものではない。
例えば、(2)そのコンクールの歴史に関して、古い伝統のあるコンクールが新しいものより必ず良い、というものでもない。しかし、歴史のある、ということは評価されるべきだし、それだけ、そのコンクールの受験者がどれだけ活躍しているかも、調べられる。新しいコンクールは、どれだけ良いとどれだけ自分達で言ったって、(6)歴代のそのコンクールで勝った人の将来 が追えないのでどうしようもない。自画自賛はいくらでも出来るが、客観的には何も言えないだろう。比較したり、評価のしようがないと言う状況に陥る。ここで言うのはあくまでも、客観的評価である。歴史が浅くてもがんばっている団体もある。逆に、がんばらなければ、受験生が減少し見捨てられ終わってしまう。
1)コンクールの参加人数 に関して:数が多ければ良い、ってものではないが、やっぱり一つの評価基準の要素にはなる。
3)課題曲が難しければ単純にすごい、というものでもあるまい。でも、やっぱり、たいへんな課題曲をこなして取った賞は、そうでもない課題曲を設定してるコンクール受験生からは、仰ぎ見られることは確か。自分には出来ない事をやった人は尊敬される。
自分が5年程前にいた、某協会のコンクールの課題曲は、でんさ節、やつんだら節のような、いわゆる、八重山の基本曲から1曲自分で選び唄うと言うもの。優秀賞、最高賞でも、2−3曲から1曲抽選で当てられそれを唄うというものだった。それはそれで、困難なものであるし、最高賞を取った人は非常に上手いですね。しかし、その時に私も仲間達も、そして先生でさえも、八重山古典民謡コンクールの課題曲の重厚さと厳しさを仰ぎ見ていた。
そのこともあり、今回、自分が八重山古典民謡コンクールの新人賞に受かった事は、自分なりに一つの山を越えたという自負心もあり、感慨深いのだ。
4)審査員の顔ぶれ に関して:やはり、自分は八重山古典民謡を唄いそれを評価されるのだから、10人くらいいる審査員の6−7割は八重山古典民謡の専門家が居てほしいものだ。また、第一人者と言われる人も何人もいるとやり甲斐もあるというものだ。
逆に、10人のうち、八重山の専門家が2−3人だったら・・・・ かなり悲しい。そんなバカなコンクールがあるのか、と思ってはいけない。そのようなコンクールだって実際にはある。八重山古典民謡コンクールはその点は太鼓判を押せる。だから私はこのコンクールを受けたいと思い、それを許可してくれる、というか、このコンクール出身者が先生をしている教室に入門したのだ。
私は、八重山古典民謡は、本島民謡とはまったく異なるもの、と認識している。だから、いやしくもコンクールで審査をされるとしたら、10人の審査員がいるとしたら、7−8人は八重山古典民謡の専門の人が審査員であって欲しいと思うし、そうでなければならないと思う。
もしそうでない、本島など他の民謡の人が多数の審査員がするコンクールなら受ける価値はないと思っている。私ならそのようなコンクールは受けないだろう。時間と金の無駄である。でもそのようなものも実際に多いのだ。本当に注意が必要だ。
自分では一生懸命でもまったくの空回り、ということになる。
8)公正さ:変な話しも聞くのですよ。以前だって、今回だって、私なりに苦労して仕事の休みを取って、石垣島まで行っているのですよ。5日間休みを取っている。コンクールが厳しいと言うより、私には休みを取るために仕事の調整をする方がずっと神経を使うものです。皆もそうでしょう。
と思ったら、新人賞なり、優秀賞なりを簡単にテープ審査で発行したりしている協会もあるのだ。何だろうね、と思った.資格商法の一種ではないかと思っている。そのような類いのものも実際にはある。
まあ、公正さは大事です。公正さが無ければ、そんなコンクールすぐに廃れてしまう。受験者にとってみれば受ける価値がないのだから。
7)オープンかクローズドか:私は個人的には、この事に一番重点を置いている。コンクールを行う協会の研究所に所属していないと受けられない、というクローズドのコンクールがすごく多い。いや、八重山古典民謡コンクール以外は、私の知る限りほとんどクローズドではないだろうか。
いや、誤解無い様に前もって言っておきたいが、それぞれにポリシーがあるのだから、それはそれで良いのだが、受ける方としてみれば、怖くはないか、と言う事。
例えば、新人賞を取った、優秀賞を取った、と言ったって、習っている先生と仲違いをして、教室を辞めれば、もう受けられなくなる訳でしょう。沖縄県に住んでいれば、その会派の別の先生に習って再出発を期す事も出来るが、内地では難しい。私の住んでいる所でも無理。だけど、このようなことは、人間の世界なんだからいくらでもある。人間関係など、ちょっとしたことでどうにでも転ぶ。崩れる。どちらが悪い、と言う事にあまり意味も無い。あるのは、自分がその教室を辞め、今まで受けていたコンクールを受けられなくなるだけだ。
いやさ。自分と先生の関係は良好でも、沖縄に住んでいる研究所元の大先生との関係が悪くなってもダメ。自分の直属の先生と、その沖縄の大先生が喧嘩して、コンクール継続がダメになるケースだってある。まあ、もらい事故のようなものである。
それはそれで仕方が無いが、自分が苦労して仕事の調整を付けて、がんばってやって来たコンクールの継続性が失われるのはひとつの大悲劇であろう。
ゴタゴタがあり、三線から離れると、億劫にもなるし、日々の生活に埋没して三線も忘れしまう。5年、10年すぐに経つ。
このようなこともあるから、それをかなり警戒して、私はこのたび三線を再開するときには、クローズドのコンクールはまったく考えなかった。自分なら怖くてそんなコンクール受けられない。故に、このコンクール出身者の先生がやっている教室の門を叩いたが大正解だったと思っている。来年は優秀賞だ。これを取れば一段落だろうと思っている。
あくまでも私の個人的な考えを述べた。
それにしても、受けるからには自分の受けるコンクールを客観的に評価してみる事も必要だ。そして、絶対の信頼を置かなければ受けられない。時間を作るのは大変だ。車で30分運転したら着くようなところでやっているわけではない。何日も休みを取って行っている。言い換えれば、命がけだ。
いや、はっきり言ってコンクールを受けなくたっていいのさ。自分で一曲一曲楽しみながらこなして行けば良い。上手い人はこれでも上手い。最高賞だ、何だと騒いでも、レパートリーはコンクールの課題曲だけ、と言う人だって多い。そんな人よりずっと上手い人は世の中に山ほど居る。これも現実だ。しかし、敢えて仕事を休んで、しんどい思いをして休みを取って長旅をして、沖縄まで出向き、コンクールを受けるのなら、自分の受けるコンクールを客観的に見てみることも必要ということが、この記事の主旨である。
三線をやっている人の年齢層は、30代から50代の人が多い。この年齢は、十分に客観的にものを考えられる。いろいろな事を考えて、いろいろな選択をして行かなければならないし、現にそうしているだろう。この記事で動揺する人もいるまい。もし、動揺したらよく考えてみることだ。そして、コンクールをどうしても受けたいのならオープンな八重山古典民謡コンクールを受けたら良いではないか。
私はいろいろ書いているけど、私が決してひとりで美味しい事をしている訳ではないよ。だって、だれだって、この八重山古典民謡コンクールは受けられるんだから。クローズドのコンクールが多い、そのような点から見ると、この八重山古典民謡コンクール、三線の業界では、本当に一種の救いにもなっているコンクールではないかな、と思う。
この記事は、いろいろと耳の痛い事も言っていると思うが、客観的にいろいろ考えるネタになってくれれば、筆者としては幸甚である。これが人間の生きる世界の現実なのだから・・・
【図】斬られた
人間関係が悪くなって、「斬られて」しまう生徒だっている。この世にはいろいろなことが起こるのだ。
でも、それで、せっかく頑張ってやってきて、上のコンクールが受けられなくなるのは、生徒にとって、非常に辛い事だ。
三線を始めて、2−3年くらいして、熱心にやっていてコンクールにも関心を持っているお方なら、ここでお話したような「斬った、斬られた」の類いの話はよく耳にしているでしょう。